【読書会】貧困地域における市民性教育の可能性とは?〜古田雄一さん(ROJE・OB)の博士論文をみんなで読む〜

こんにちは!ROJEスタッフの桑田湧也です。

本記事では、先日開催されたROJE内部メンバーによる読書会の様子をご紹介します。

今回の検討文献は『現代アメリカ貧困地域の市民性教育改革ー教室・学校・地域の連関の創造ー』(2021年に東信堂より出版)。
市民性教育(シティズンシップ教育)の実践を教科(公民科)・学校・地域という幅広い位相から丹念に分析し、その教育的意義について議論した本です。
また、タイトルにも「現代アメリカ貧困地域」とあるように、ともすれば「エリートの教育」として想定されがちだった市民性教育の対象を社会的困難を抱える子どもたちに設定し、その可能性を吟味した挑戦的な書籍でもあります。単なる「いい教育実践の紹介」にとどまることなく、アメリカの現場教員や子どもたちの声から市民性教育を冷静に分析していることもまた、本書の大きな魅力です。

今回は本の著者であり、ROJEのOBでもある古田雄一さん(大阪国際大学短期大学部准教授)をゲストに迎え、市民性教育を中心に幅広いテーマについてディスカッションをしました。

▷古田雄一さんのプロフィールはこちら

▷今回の検討文献

読書会自体は、メインコメンテーターを務めた桑田がいくつかの論点を提示しつつ、他の参加者からも気になったポイントを挙げてもらう形での進行でした。

「いい市民性教育」とはなんなのか

まず最初に桑田から提示させてもらった論点は、ズバリ「市民性教育の成果とはなにか?」。市民性教育の成果というと、大雑把に言えば「選挙に行くようになったか」「会議に参加するようになったか」といった指標が想定されます。しかしこの本では、そうしたわかりやすい指標にとどまらない長期的な変化にも言及されていました。

そのひとつが、子どもたちの「将来の経験可能性の拡張」。貧困とは、単にお金がないといった問題だけでなく、心ない差別や貧困者たちの自己責任(貧困なのはお前たちが怠けて働かないせいだ)を咎める声によって、人々の心を蝕んでいくもの。それゆえに、貧困地域というのはある種の無力感(「どうせ生活はこのままよくならない」といった感覚)が充満してしまうという側面があります。しかし、市民性教育の中で子どもたちが自分たちの日常経験を問題化し、「声」のあげ方(この「声」は政治的な意見表明という意味)に気づくことで、社会を変革する糸口を探ることができる。そんな将来の可能性の拡張に、市民性教育が一役買うのではないかという考察が展開されていました。

ディスカッションの中では、「その将来とはどこまでを指すのか?」「子どもたちが本当に貧困などのセンシティブな問題に向き合えるのか?」といった疑問がありました。現実的な調査上の限界には言及されつつも、古田さん自身がアメリカで感じ取った実践の可能性についてもお話されており、市民性教育の意義について議論を深めることができました。

読書会の様子。オンラインで各地のみなさんと和気藹々と話しました。

教育だけでは変わらない。”教育万能論”に陥らず、実践から何を学ぶか?

この読書会でも度々話題になり、古田さん自身も言及されていたのが、「単なる教育万能論に陥ってはならない」ということでした。「◯◯教育で社会はこんなによくなるんだ!」といったお決まりのフレーズは今やいろんなところで散見されますが、そもそも教育という実践の背後には、子どもたちやその家族の社会経済的な背景、先生たちの労働環境、さらにそれらを覆う大きな社会情勢といったさまざまな外的要因が存在します。それらをあたかもなかったもののように考え、優れた教育の取り組みをほめそやすというのは愚の骨頂。現実的には、良いとされる教育実践をさまざまな視点から捉えて分析するとともに、教育を社会課題を解決する手段の一部として考えていく必要があるのです。

本書で紹介されている市民性教育の取り組みもまた、一歩間違えれば「貧困で苦しむ人も社会の変える行動の仕方を学べば貧困から抜け出せる」と受け取られかねません。だからこそ、教育万能論を鵜呑みにしないという構えが大切。実際、古田さんが本で分析している事例もさまざまな地域資源を持ち寄りながら、貧困地域の人々をエンパワメント(=力を与える)するための一つの方法として市民性教育の実践が紹介されていました。

では、そうした限界があるとわかった上で、あらためて「いい市民性教育の条件」とはなんなのか?今回の読書会を通じて私が重要だと感じたのが、ある参加者の方が言及した「風土」という概念でした。本書でも古田さんが幾度となく使用している言葉ですが、それが意味するのは、なにか特定の市民性教育の実践(選挙について教える社会科の授業とか)ではなく、大人たち(先生たち)が子どもたちの日常生活での困難に耳を傾け、そんな彼ら彼女らの発する「声」を尊重していこうとする雰囲気のこと。形として実践に表れずとも、先生たちの根本的な価値観を形成する前提ーーそんな民主主義の「風土」が息づくことで、市民性教育の実践は継続し、子どもたちにも肌感覚で伝わっていくのだと思います。特別な教育実践のみを市民性教育と名指すのではなく、それが成り立ち継続する前提も含めて市民性教育というものを捉えること。そんな根本的なところから考え抜かれて展開される教育実践が、社会課題解決の一翼を担っていくのではないでしょうか。逆に言えば、そうした「風土」を抜きに良質な教育実践という商品を輸入することは、かえって現場を混乱させる悪手になるのかもしれません。

おわりに

他にも読書会では、「子どもの本音はどうやったら聞けるのか?」「市民性教育と学力の関係は?」「アメリカの貧困問題と他国(日本・イギリス)のそれとの違いとは」「教育学研究において何を成果としていくべきか」などなど、本当に幅広な論点をざっくばらんに話しました。できればどれも紹介したいところですが…膨大な文章量になってしまうのでカットさせていただこうと思います(泣)。

最後に、今回の読書会のよかったと思うところをひとつだけ。読書会にはROJEの現役メンバーからOBOGまで、さまざまな立場の方が集まってくれました。そんな中行った教育談義は、ある意味カオスなものでした(笑)。もちろん古田さんはじめ教育を専門的に研究する立場の人もいましたが、基本的にはそうした専門性にこだわりすぎることなく、参加者の関心の赴くままに議論していきました。

そんな様子を見ながら、私としては改めて、教育を批評する場の大切さを再認識していました。教育は、今や数多の専門家の方たちによって支えられています。その中には現場の先生や教育学者だけでなく、心理学者やカウンセラー、社会学者、経済学者、医療関係者などなど、本当に多種多様な知識を有した人がいます。

その一方で、教育とは専門家だけが語るべきものでもありません。教育は学校だけでなく、家庭で、会社で、はたまた地域で、誰もが遭遇し得るもの。そんな身近に存在する教育というものについて、深く考え直したり、素朴な視点から話あったりする場がもっとあってもいいと思います。

今回の読書会を皮切りに、ROJEではそんな教育について自由に意見を交わし合える場を創り続けていきたいと思います。

 

 

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