【災害と教育事業部 つぼみプロジェクト・わたげプロジェクト】合宿in福島県・宮城県を行いました!Part2

7月6日(土)~7日(日)に、NPO法人ROJE「災害と教育事業部」(つぼみプロジェクト・わたげプロジェクト)のメンバーで1泊2日の合宿in福島県・宮城県を行いました。

1日目は福島県、2日目は宮城県でフィールドワークを行いました。メンバーにとって学び多い今回の合宿の様子を2回にわたってご報告します。

 

今回は、2日目の宮城県編。

はじめに宮城県石巻市の大川小学校跡地を訪問した後、南三陸町のYES工房とさんさん商店街の見学をしました。

 

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2日目(朝):大川小学校への訪問

 2日目は、宮城県石巻市の大川小学校跡地を訪問しました。ここでは、付近の川を逆流してきた津波が小学校を襲い、多くの尊い命が失われました。当時の津波の破壊力を物語るように鉄筋コンクリートの柱が引きちぎられており、そこに存在していたであろう壁は見当たりませんでした。

津波に飲まれた校舎を見学するメンバー(大川小学校にて)

 

 小学校跡地の周りには、かつて住宅が道路の両端に建てられていました。しかし、今や見る影もありません。手付かずの自然が広がっていました。辺りは、とても静かで跡地の裏には小高い山がありました。よく見ると、10メートル程度登ったところに津波の到達点が示されていました。大川伝承の会によれば、津波襲来直前、裏手の山ではなく川に向かっていたそうです。山に向かっていれば、津波を逃れていたと思うと、非常に胸が痛くなりました。

 私たちの他にも、訪問する方々を見かけました。車のナンバーを見ると、どうやら全国各地から来ているようです。こうして跡地として残すことは、後世に伝承していく上で非常に重要な意味を果たしていると思いました。

 今回の訪問を通じて、震災の悲惨さを改めて実感すると同時に、防災教育について考えさせられました。私は、同じような出来事を繰り返さないようにすることが大切だと思います。そのためにも、プロジェクト活動を通じて多くの方に発信を行なっていきたいと思います。

 

2日目(昼):YES工房への見学

 YES工房は2011年の7月に南三陸町の廃校舎を利用して作られた工房で、被災して職を失った人たちの雇用先であり、ある種の気晴らしのための場所としてスタートしました。まもなく、震災前から合格祈願のキャラクターとして制作されていたオクトパス君のグッズ製作を手掛けるようになりました。当初は復興のための補助金なども受けていましたが、現在ではオクトパス君以外の事業も手掛け、補助金を受けずに独立した工房として活動を続けています。もともとが廃校舎だった場所を活用しているため、廃校の工房で「廃校(工)房」、はいを英語にして「YES工房」というのが名前の由来です。震災以降様々なネガティブな状況に取り囲まれながらも、前向きに肯定的に活動していくという思いが込められています。

 

所狭しと並べられたオクトパス君(YES工房にて)

 ここで印象的だったのは、この工房が震災を土台に持ちながらも震災を乗り越えて人の生活を取り戻していたことです。YES工房の説明をしてくださったのは大友さんという方でしたが、大友さんは、ここがほかの多くの復興事業と違い、補助金に頼らずに経営をしていると話していました。このため、事業を回していくのに必要なだけの利益を上げていく必要があります。そして、これは被災地以外の地域のあらゆる事業が当たり前にしている企業努力と呼ばれるものです。つまりYES工房はすでに被災者への同情ではなく、社会における当たり前を獲得しているのです。復興は個人の暮らしから始まり、徐々に地域町並みと大きくなっていきます。そして最後には他地域との関わりや経済、文化、政治活動など、社会としてのの役割の復活に行き着きます。復興のゴールは人が生きていけることではなく、震災以前のように社会を回すことができることだと思います。YES工房は、他の多くの復興事業とは違い、すでに社会の一員となるための復興活動をしているように感じられました。

 私たちは「被災者」を一緒くたするような見方をするべきではありませんが、では被災地をどのようにとらえればいいのでしょうか。この問いに対する答えの一つを、YES工房はその社会とのかかわり方によって気づかせてくれました。

 

おわりに

 今回の合宿で強く感じたのは「被災地」というレッテルの歪(いびつ)さです。私自身実際に見てみるまで同情や「手伝わなければいけないもの」として被災地として見ていましたが、その実相手が何を必要としているのかについてあまり気にかけていませんでした。被災者一人一人にはそれぞれの状況があり、必要なものも必要のないものも違うという当然のことが頭に入っていませんでした。

 私は被災地にある全ての個を「被災者」というひとまとめのレッテルで認識していたのです。おそらく、この判を押したようなレッテルは、私たちに震災前からあった被害者は救うべきという道徳が、日夜報道によって知らされる被災地の現状によって後押しされて形成されたものなのだと思います。もちろんこのようにレッテルが貼られたことは否定されるだけのものでもありません。このおかげで私たちは様々な形で震災直後の利他的な支援を行うことができました。被災地の多様な人々を一元的にとらえることで、どの避難所にはけが人が何人で子供が何人で離乳食が足りてないといったことを考える前にすべての人にとって必要な水と食料、生活必需品を送ることができました。この段階では個別のニーズよりそもそそも最低限のものが、質より量が必要でした。一方で、震災から時間がたった今必要な支援は最低限の生活ができるからこその、生活を豊かにするものです。これは普遍的な正解はなく、その場にあったものを知る必要があります。しかし報道などによって入ってくる受け身の情報ではそのような潜在的なニーズはわかりません。

支援しようとするならば相手のことを知り、適切な関わり方を取ることが必要になります。

 

これから私たちは、今に至るまで被災地と呼ばれ続ける場所と被災者と呼ばれる人を、社会の一員として取り込み、当たり前の関係性を気付いていくための努力をしていく必要があるのだと思います。

 

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