【講演録】パネルディスカッション


*瀧澤勇弥(学生登壇者)※以下敬称略:

かんふぉ12

現在、わたしたちはグローバル化の波に飲まれかけています。その中で私たちは今後地球に生きる1人として、多様な人とどのように生きていくのかということが重要になってくると思います。

そこで、今回苫野先生・鈴木先生と、多様な人とどのように生きていくべきなのかについてディスカッションをしていただきたいと思います。

かんふぉ13

『多様な人と共生するために私たちに必要な能力はどのようなものがあるでしょうか?』

?

*苫野一徳先生 ※以下敬称略:

相互承認の感度が一番重要なのではないかと思います。

 

*鈴木寛先生 ※以下敬称略:

まず、能力という規定の仕方をやめる必要がありますね。これってすごく人間を機能で見ているのです。人々を「機能」と見ていたら、「あいつは能力がある、あいつは能力がない」という風に見て、人の序列化をしてしまうんですね。僕は「卒近代」(これまでの物の豊かさを誇る物質文明から、心の豊かさを重視する社会へ移行していくことhttp://www.gakken.co.jp/kyouikusouken/column/suzukan/01.html)という、脱近代とは異なりますが近代のいいところをリスペクトしながらすすめましょうということを言っています。学びというよりは感受性を交換するという姿勢が大好きで、近代教育ではなく学びの芯というのを大事なキーワードにしています。

結局グローバルなコミュニケーションというのは色々な人と仲良くなろうということですよね。そのときに、スポーツや音楽って共通言語です。まさに感受性を交換すること。色々な人と感受性を交換し合うときに、一緒のサッカーを見たり一緒に歌を歌ったりということがすごく大事だと思います。そういう意味で色々な遊びをぜひ一緒に色々な人とするというのがいいのではないでしょうか。

 

*苫野

鈴木先生は今まさにノンバーバル(非言語)なコミュニケーションの大切さをおっしゃっていました。一方で哲学ってめちゃくちゃバーバルな言葉を使います。哲学は面白いもので、様々文化的な戦いや宗教戦争の後、急速に発展しているのです。それはつまり価値観・感受性のレベルで何か起こった時に、なんとかして「みんなが納得する言葉で理解し合おう」というような必要が出てきたからなのです。ノンバーバルなところで一気にグローバル化して、それを広く理解するためにバーバルな言葉を当てはめていくことが哲学の役割だと感じています。

 

*瀧澤:

ノンバーバルなコミュニケーションが大切だというお話でした。

僕自身多様な人と共生するためにどんな「能力」が必要なのだろうかというセンスをもってしまっているのですが、そういうセンスを打破するための教育としてはどのようなものがあるのでしょうか?

 

*苫野:

さきほどの講演で3つのキーワードをあげました。1つ目が「信頼と承認の空間をしっかりとつくること」、2つ目が「人間関係の流動性をしっかり保つということ」、3つ目が「協同的・対話型の学びを中心にしていくこと」の3つです。この中でも最初に重要なのが、1つ目の「信頼と承認の空間をしっかりとつくること」です。やはり他者を承認するということは自分を承認できないとできないのです。自分に不安を抱えていると、人に対しての攻撃性がでてきたり、人を認めることができないっていうことになったりしてしまいます。

本来なら子どもに対して絶対の信頼や承認を与えるのは親の役割です。しかし、今の時代に限ったことではありませんが、親のいない子どもだっているし、そういう余裕のない親だって今たくさんいます。だからそういったところを保育や教育が担うことで、信頼の最後の砦になってほしいと思います。ここに8割くらいの重要性があるのではないでしょうか。

 

*鈴木:

私は安心して喧嘩して仲直りするのが大事だと思います。しかし、今の日本の教育は子どもに喧嘩するなという。これはよくないですね。こういった完璧主義や無菌主義というのは、あとでしっぺ返しをくらいます。

私の友人の一之瀬先生は(一ノ瀬 正樹: 東京大学人文社会系研究科教授生、哲学者、1957~)「リスク総和」いうのを提唱しています。あるリスクをなくすと逆のリスクが増える、というような考え方です。例えば子どもの頃に起きる喧嘩を回避しようとすると、いつかものすごく大きな喧嘩が起こってしまいます。その対策として、ほどほどに喧嘩したらいいのです。だけど敵ではなくて、好敵手というように相手を選別しないといけない。喧嘩をすることが友情を深める1番の近道です。

そして共に苦しい体験・楽しい体験をすること、難問に共に苦心して取り組むといったことが重要です。ディレンマ・葛藤というような難しい問題に一緒に取り組み、それを乗り越えたときに信頼と承認ができるのだと思います。若い人にはそういうものが目の前にあったとき、そこに踏み出す勇気をぜひ持って欲しいです。どのような教育があるのかという話でしたが、なかなか一歩を踏み出せないでいる人達の背中を押してあげる、そしてこけたときでも大丈夫だというセーフティネットが必要かなと思います。

 

*苫野:

トルストイというロシアの文豪がいたのですが、彼は先進的な教育者でもあって、ヤースナヤ・ポリャーナ学校(http://jp.rbth.com/arts/2013/03/15/41857.html)というすごく自由な学校をつくりました。

相互承認の感度というのは集団生活の中で子供たちは自ずと育みます。幼稚園や保育園を見ればよく分かる。必ずおもちゃの取り合いが起こるのです。万人の万人に対する闘争ですよね(笑)「おもちゃ貸―して」「だーめーよ」、という会話が必ず起こる。ところがだんだん「貸―しーて」「ちょっとよ」というようになってくる。相互承認しなれば自分の自由がなくなるという感度を子どもたち自ら持っているのです。ところが教師が余計なことをするのでこの感度が崩されていくことがあるのだということをトルストイは言っています。

例えば喧嘩をしているときに、途中で「喧嘩はやめなさい」って言われると、言われた方は「クソー!」という気持ちだけを残します。そうでなくて、もちろん介入しなきゃいけない時はあるけれど、あまり介入しすぎないで見守っていると、子どもたち同士でなんとか収めようとします。子どもたちだけで難しかったら、周りの大人が自然と「そろそろあいつらやばいぞ」ということで収まります。まさに環境として相互承認の感度というのは育まれているのです。

 

*瀧澤:

けんかをする大切さ、そして相互承認の重要性のお話でした。

それでは2つ目の問いです。

 

信頼と承認の空間をつくりだすためには具体的にどのようなものがあるのでしょうか?』

?

*苫野:

1つは、講演でキーワードとしてあげた3つ(①学校・教室空間を『信頼と承認の場』に、②人間関係の流動性、③協同型、対話型の学びを促進)のうち、2つ目の人間関係の流動性が重要になってきます。あまりにも閉鎖的な空間にいすぎると、相互攻撃が起こってしまいます。学級のいじめは、かなりそういった構造的な問題があるのです。ある程度人間関係の流動性を担保する必要がありますね。

それからもう1つは、能動的な学び・探究的な学び・プロジェクト型の学びと言われるようなものを学校でやっていくということです。これは文科省でも今すごく推進していますが、要するに多様な人たちと流動的な人間関係の中で協動して学びを行うということであり、それらがとても重要です。

プロジェクト型の学びを通じて、もちろんそこで喧嘩もあるけれど、自分と相手の得意・不得意など色々なことがわかってきます。だんだんとお互いの力を活かし合った、相互承認の感覚をつかみながら協働しあって努力しあう学びを進めていく状況が生まれてくるのです。こういった経験をカリキュラムの核にしていくというのが、一番重要な方法として挙げられるのではないかと思います。

 

*鈴木

まさに、僕の人生がそういうものを実践してきた、というのを思いながら聞いていました。コミュニティ・スクール(教育委員会から任命された保護者や地域住民等が、一定の権限と責任を持って学校運営の基本方針を承認したり、教育活動について意見を述べたりできる制度を持った学校http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/community/index.htm)は2000校まで拡大しました。放課後子ども教室(小学校の余裕教室等を活用して、地域の方々に参加してもらい、子供たちと共に学習や様々な体験・交流活動、スポーツ・文化活動等の機会を提供する取り組みhttp://manabi-mirai.mext.go.jp/houkago.html)で言えば10000校。色々な人間関係が、縦横斜めに、様々な方向へと向かっています。まさに人間関係を流動させることが出来ていると思います。

今年の8月の末から9月頭までは、OECD東北スクールという、東北の高校生100人をパリに連れて行って15万人の前で東北の復興を伝えるプロジェクトをやっていました。今OECDでは 2030年の教育というコンセプトを抱えていて、まさにOECD東北スクールをモデルにしてPBL(課題解決型学習)を中心とした教育を世界的に推奨するという話になってきているのです。

他にも良い動きはいっぱいあります。特に小中学校では総合的な学習の時間がありますからね。最初導入するときは、現場の先生の混乱など色々な苦労がありましたが、その結果2012年のOECDのPISA調査(15歳を対象とした21世紀型のコンピテンシーを測る調査)では加盟国の34か国中、日本は読解力と科学的リテラシーが1番、数学的リテラシーが2番、つまり総合で一番に返り咲きました。知識の応用力は15歳の時点で日本は全く問題ありません。

しかし高校に行ったらその力が潰されてしまう。せっかく15歳まで上手くいってきているので、どうやったら高校でさらに広げ大学でさらに広げられるかというのが今問題になっています。今の高校生には大学入試の恐怖と、就職の恐怖の2つの恐怖があるのです。これは対話とか協動とか流動性とかとは真逆の、非常に権力的な構造の中で抑圧されています。これをどのように解き放っていくのか。容易い話ではありません。僕も今、その狭間にいます。

 

*瀧澤

協働的な学びは中学校まで実践されているが、高校・大学でどうするかが今後の課題というお話でした。

それでは最後の問いに入らせていただきます。

 

『これまで教育全体というもので見てきましたが、多様な人と共生するために私たちが個人的にできることはどのようなことがあるのでしょうか?』

 

*鈴木

もっと好奇心をもってほしいと思います。ここも感受性の問題ですが、自分の心の内の中にある率直な問いに対してもう少し好奇心を持ってもらって、人生の先輩たちと議論するということを心掛けることが大事だと考えています。

人間は無力だと思いこまされているのですよね。けれども若者の力というのは無限です。歴史を紐解けば、若者のちょっと無謀なことがいかに世界の歴史を作ったかは明らかです。「自分1人が頑張ったって…」と思ったりするかもしれないけれど、リスクもチャンスも含めて、ものすごく複雑で多様な、非常に拮抗した世の中になっています。そうすると0.001グラムの存在でもそれがどこにポジションを持つか、どこに働きかけをするかでそのバランスが大きく崩れます。実は1人の学生や若者の1歩というのはそういった可能性をはらんでいるということを信じてやっていってほしいです。

私も、矛盾している人間です。あるときまで矛盾した、嘘をついているような自分にすごく自己嫌悪がありました。そんなとき西田幾多郎(京都大学教授、哲学者、京都学派の創始者として有名、1870~1945)に触れて、「絶対矛盾的自己同一」という考えを知りました。これはあくまで自分の中での曲解ですが、「結局人間や存在というのは矛盾している。それが人間であり、それが新しい流れを生むのだ」というように考えるようになりました。矛盾を恐れない勇気が大事です。どんどん矛盾してください。

 

*苫野:

今は、経済のグローバル化に伴ってたくさんの問題が出てくる時代です。そしてそれは色々なタイプの“個人”が出てくる時代でもあります。問題があるところにはそれを解決する人が表れるので。考え方として、「徳の騎士」に陥らないという観点を言っておきたいとふと思いました。これはヘーゲルが言った言葉ですが、「なにか新しいことをするんだ」「自分たちが社会変革を起こすんだ」ということをやった時に、自分にとっての正しいことを騎士として「俺が正しいんだ」、「お前たちが間違っているんだ」というように、私たちは時として「徳の騎士」になってしまう。ヘーゲルによると、私にとって”正しい”ことは、他者との相互承認があってはじめて”正しい”と言えるのだということをしっかり認識するのが重要です。ここでも相互承認がキーワードです。私たちは徳の騎士になりやすい。徳の騎士になると、最終的に何が起こるか。自分の正義をかかげて、人を殺してしまいます。

私は、個人にできることという言い方はあまり好きではありません。今も道徳の教科化が話題になっていますが、「道徳の時間をやって子供たちの道徳心を涵養するんだ」というように、個人の心理に働きかければものごとが全部うまく、といういような考え方はすごく危険だと思います。だからあまり個人にできることとして強調はしたくありませんが、個人にできることがあるとするならば、最低限「一般化のワナ」と「問い方のマジック」に引っかからないというリテラシーを共有できればと思います。そんな難しいことではありませんから。きっと相互承認の社会ができます。

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